わたしの胸騒ぎを煽るように雨はよりいっそう激しさを増す。
開け放しのカーテンから差した、滲んだ夜の微光。
窓に反射した光は、水面が揺れるように点々と朧きらめいていた。
リビング中央で足がすくむ。
浮足立ったが最後、今立っているところには二度と帰って来られないような気がした。
雑音が頭の中を侵していく。その闇は嵐の音と共に迫ってくる。

「電気も付けずにどうしたの?」

振り返ると、朱李しゅりはすぐ後ろまで近づいていた。
彼女は覗き込むように首を少し傾げ、すこし濡れたわたしの毛先に、そっと触れる。
そしていつものように、口元を緩めながら優しく微笑むのだ。
血の通った皮膚のように、そこから彼女を感じた。
細めた彼女の瞳に映るのはわたしだけ、また、わたしも目を細めて微笑み返すのだ。

「酷くなる前に走ってよかった」
「ありがとう」

朱李は、ふわふわのタオルを手渡してくれる。
前髪から垂れた水滴が頬を伝う。彼女は自身の親指でわたしの頬を軽く撫でた。

呼吸が止まる。

朱李の手は、少し冷えていた。

「…シャワー浴びておいでよ」
「いいよ、後で入る」
「風邪ひくよ」
玄乃しずのもでしょ」
「いいから入っておいで」
「う〜ん」

朱李は、自分の髪を指に巻きつけながら気の抜けた返事を返す。
この返事は、シャワーを後回しにする返事だ。

「着替え、持ってくるね」
「大丈夫」
「風邪ひくよ」

彼女もまた小雨に打たれ、すこし濡れているというのに。
わたしのための着替えを取りに行く後ろ姿が、今日だけは酷く寂しく感じた。
自室へ向かう際、電気のスイッチに手をかけるも、わたしのほうに視線をやり、
そのまま電気を付けずにリビングを出ていった。

水面が揺れる彼女のリビングは、以前来たときよりやや広く感じられた。
いくらかの家具や雑貨が片付けられているようだった。
パズルのピースが揃っていくように、胸騒ぎの答えがすぐそこまでやってきている。

三段ボックスの一番上に飾られた、白の愛らしい写真立てと、 真っ赤な小箱。
視界の端に収めるのが精一杯だった。
白の写真立ては前にも、その前にきたときもあった。そこに飾られた写真もよく知っている。
あふれんばかりの笑顔をした朱李と、朱李の腰を抱いた二つ年上の彼。
それが気疎けうといのも変わらないが、置いてある小箱が問題なのだ。
私じゃなくても、誰だってすぐにわかる。あの小箱は…

たまらなくなって目を瞑った。

嫌なことからは、いつもこうして逃げてきた。

終わるまでただ目を瞑って耐えるだけ。そうしていればいいのだ。

嫌なことが過ぎ去るまで、消えてしまうまで。

雑音が再びわたしを飲み込んでいく。

ノイズが徐々に大きくなり、ぷつりと消える。

そのとき思い出したのは、幼い頃に犯してしまった罪の記憶。

手のひらの中で、黒い金魚が死んでいくシーンだった。
滑った鱗のグロテスクな触感と、レースのように薄いヒレの艶かしさ。
エラから酸素を取り込もうと、パクパクと口を動かしていた。
ぎょろっとした目は、訴えるようにこちらを捉えて離さなかった。
好奇心。
水の中を泳ぐ金魚が、水のないところでどうなってしまうのか、それだけだった。
ただじっと、弱っていき、ついには動かなくなるまで、わたしは黒い金魚を見つめていた。

初めて目にした生命の死、同時に初めての殺し。

記憶に強く残った光景は、色褪せることなく、なお鮮明に思い出させるのだ。
それはまるで、贖罪のように。

雨はいっそう激しさを増す。
今なら、雨の音でかき消されるだろうか。
声に出してしまっても、許されそうな気がして口を開け、
やめた。
届かなければ、この言葉を、気持ちを、口に出す理由なんてどこにもない。
今日までこうしてきたのだ。これからもそうだ。

「先にシャワー入る?」

淡い桃色のパジャマに着替えた朱李の手には、長袖の白いワンピースがあった。

「ありがとう。私も後でいい」
「そっか」

リネンシャツのボタンを外していく。
背中のブラホックを、彼女は黙って外してくれた。
朱李は、いい加減部屋の電気を付けようと手を伸ばすが、
「暗いままにして」
とわたしが言うと、彼女はその手をお腹へと戻した。
ズボンと靴下を無造作に脱ぎ捨て、
彼女からワンピースを受け取り、首そして腕を通す。
替えの下着も彼女は用意してくれていたけれど、それには手を付けなかった。
床に広がる抜け殻をまたいで、わたしはベランダへと向かった。

「玄乃?」

わたしを呼ぶ朱李の声を背に、ベランダの窓を勢いよく開ける。
雨は絶え間なく降り続け、空を、街を、闇で覆っていた。
裸足のままベランダへと下りる。 滝飛沫のように、小さな水滴がじわじわとわたしを濡らした。

唸る雨の音はわたしをどこまでも煽っていた。
振り返ると、朱李は疑問の表情を浮かべ、リビング中央でただ呆然とわたしを見つめていた。

答え合わせをされることが何よりも怖かった。 …いや、答え合わせなんかしなくても、本当は全部分かっていたのだ。
過ぎ去ることなどないと分かっていながら、目を瞑って、過ぎ去ってしまうのをただ待っていただけだ。

あの赤い小箱が最後のピースだった。

朱李の家が今日、こんなに片付いていることも
朱李が今日、いつもの居酒屋に誘わなかったことも
朱李が今日だって、お酒を飲まなかったことも
朱李が今日なのに、温泉にわたしを連れて行ったことも
朱李が今も、お腹に触れていることも

ただの思い過ごしであってほしいのに、裏付けるには、それらは十分過ぎた。

朱李の血が流れた人間が朱李から産まれ、そこには家族が生まれる。
わたしには不可能なことだらけだ。
同性であることだけが、わたしに与えられた唯一の価値。
彼女の求めるわたしになって、よき理解者であり続けた。
ただその瞳にわたしだけが映っていればよかったのだ。
いついかなるときも隣に居続けられたのは、紛れもなく同じ性であったから。
だからこそ、届かぬ言葉を押し殺して、彼女の一番の友であり続けた。
それなのにそれが今、不可能であることを実感せざるを得ない。
同性であることが、瑕疵かしなのだ。

朱李の一番になりたい。永遠に、彼女の一番に。

赤茶色の彼女の瞳に光が反射する。

「  ————————。 」

雨の音にかき消されないように、力を込めて、愛を込めて。
これは本当の言葉で、純粋な笑顔だ。
屋上であなたと約束を交わしたとき以来の笑顔かもしれない。
誰よりも幸せになってほしい。素敵な家庭を築き、大切な人と共に歳をとる。
朱李にならできるよ。
朱李の顔は滲んでよく見えないけれど、
きっと今までさせたことのない顔をしているのだと思う。
そんな顔をさせてしまうのは、最初で最後だからどうか許してね。
大きく息を吐いた。
なぜだかとても高揚している。
ようやく一番になれるのかと、待ち遠しさに心が躍っていた。

柵に手をかける。一瞬にして手が甚だしく濡れた。
鉄棒で前回りをするように、頭から身を乗り出した。
4階からの浮遊感なんて一瞬だった。
冷たい雨に打たれているというのに、身体中熱っている。

意識が薄れていく中、わたしはまた黒い金魚のことを思い出す。

手のひらの中で死んでいく黒い金魚は、同じ水槽の中で泳ぐ赤い金魚に比べて不恰好であった。
三匹の黒い金魚の中の、見分けもつかぬ一匹。
それでも、その瞬間は何よりも鮮やかであった。
目の前の死は酷く聡明に、明瞭に、わたしの中に残り続ける。
朱李も、そうであってほしい。

あなたの黒い金魚になりたい。

わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ぼんやりとした視界に僅かな桃色が映った。
最後にふと、心残りが頭をよぎる。

朱李に触れてみたかったな—————。