わたしの胸騒ぎを煽るように雨はよりいっそう激しさを増す。 開け放しのカーテンから差した、滲んだ夜の微光。窓に反射した光は、水面が揺れるように点々と朧きらめいていた。 リビング中央で足がすくむ。 浮足立ったが最後、今立っているところには二度と帰って来られないような気がした。 雑音が頭の中を侵していく。その闇は嵐の音と共に迫ってくる。
呼吸が止まる。
彼女もまた小雨に打たれ、すこし濡れているというのに。わたしのための着替えを取りに行く後ろ姿が、今日だけは酷く寂しく感じた。 自室へ向かう際、電気のスイッチに手をかけるも、わたしのほうに視線をやり、そのまま電気を付けずにリビングを出ていった。
水面が揺れる彼女のリビングは、以前来たときよりやや広く感じられた。 いくらかの家具や雑貨が片付けられているようだった。 パズルのピースが揃っていくように、胸騒ぎの答えがすぐそこまでやってきている。
三段ボックスの一番上に飾られた、白の愛らしい写真立てと、真っ赤な小箱。 視界の端に収めるのが精一杯だった。 白の写真立ては前にも、その前にきたときもあった。そこに飾られた写真もよく知っている。 あふれんばかりの笑顔をした朱李と、朱李の腰を抱いた二つ年上の彼。 それが気疎けうといのも変わらないが、置いてある小箱が問題なのだ。 私じゃなくても、誰だってすぐにわかる。あの小箱は…
たまらなくなって目を瞑った。
そのとき思い出したのは、幼い頃に犯してしまった罪の記憶。
手のひらの中で、黒い金魚が死んでいくシーンだった。 滑った鱗のグロテスクな触感と、レースのように薄いヒレの艶かしさ。 エラから酸素を取り込もうと、パクパクと口を動かしていた。ぎょろっとした目は、訴えるようにこちらを捉えて離さなかった。 好奇心。 水の中を泳ぐ金魚が、水のないところでどうなってしまうのか、それだけだった。 ただじっと、弱っていき、ついには動かなくなるまで、わたしは黒い金魚を見つめていた。 初めて目にした生命の死、同時に初めての殺し。 記憶に強く残った光景は、色褪せることなく、なお鮮明に思い出させるのだ。 それはまるで、贖罪しょくざいのように。
雨はいっそう激しさを増す。 今なら、雨の音でかき消されるだろうか。 声に出してしまっても、許されそうな気がして口を開け、 やめた。 届かなければ、この言葉を、気持ちを、口に出す理由なんてどこにもない。 今日までこうしてきたのだ。これからもそうだ。
リネンシャツのボタンを外していく。 背中のブラホックを、彼女は黙って外してくれた。 朱李は、いい加減部屋の電気を付けようと手を伸ばすが、 「暗いままにして」とわたしが言うと、彼女はその手をお腹へと戻した。 ズボンと靴下を無造作に脱ぎ捨て、 彼女からワンピースを受け取り、首そして腕を通す。 替えの下着も彼女は用意してくれていたけれど、それには手を付けなかった。 床に広がる抜け殻をまたいで、わたしはベランダへと向かった。
わたしを呼ぶ朱李の声を背に、ベランダの窓を勢いよく開ける。 雨は絶え間なく降り続け、空を、街を、闇で覆っていた。 裸足のままベランダへと下りる。 滝飛沫のように、小さな水滴がじわじわとわたしを濡らした。 唸る雨の音はわたしをどこまでも煽っていた。 振り返ると、朱李は疑問の表情を浮かべ、リビング中央でただ呆然とわたしを見つめていた。 答え合わせをされることが何よりも怖かった。 …いや、答え合わせなんかしなくても、本当は全部分かっていたのだ。 過ぎ去ることなどないと分かっていながら、目を瞑って、過ぎ去ってしまうのをただ待っていただけだ。
あの赤い小箱が最後のピースだった。
朱李の家が今日、こんなに片付いていることも 朱李が今日、いつもの居酒屋に誘わなかったことも 朱李が今日だって、お酒を飲まなかったことも 朱李が今日なのに、温泉にわたしを連れて行ったことも 朱李が今も、お腹に触れていることも ただの思い過ごしであってほしいのに、 裏付けるには、それらは十分過ぎた。
朱李の血が流れた人間が朱李から産まれ、そこには家族が生まれる。 わたしには不可能なことだらけだ。 同性であることだけが、わたしに与えられた唯一の価値。 彼女の求めるわたしになって、よき理解者であり続けた。 ただその瞳にわたしだけが映っていればよかったのだ。 いついかなるときも隣に居続けられたのは、紛れもなく同じ性であったから。 だからこそ、届かぬ言葉を押し殺して、彼女の一番の友であり続けた。 それなのにそれが今、不可能であることを実感せざるを得ない。 同性であることが、瑕疵かしなのだ。
朱李の一番になりたい。永遠に、彼女の一番に。
赤茶色の彼女の瞳に光が反射する。
「 ————————。 」
雨の音にかき消されないように、力を込めて、愛を込めて。 これは本当の言葉で、純粋な笑顔だ。 屋上であなたと約束を交わしたとき以来の笑顔かもしれない。 誰よりも幸せになってほしい。素敵な家庭を築き、大切な人と共に歳をとる。 朱李にならできるよ。 朱李の顔は滲んでよく見えないけれど、きっと今までさせたことのない顔をしているのだと思う。 そんな顔をさせてしまうのは、最初で最後だからどうか許してね。 大きく息を吐いた。 なぜだかとても高揚している。 ようやく一番になれるのかと、待ち遠しさに心が躍っていた。
手のひらの中で死んでいく黒い金魚は、同じ水槽の中で泳ぐ赤い金魚に比べて不恰好であった。 三匹の黒い金魚の中の、見分けもつかぬ一匹。 それでも、その瞬間は何よりも鮮やかであった。 目の前の死は酷く聡明に、明瞭に、わたしの中に残り続ける。 朱李も、そうであってほしい。
あなたの黒い金魚になりたい。
わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。 ぼんやりとした視界に僅かな桃色が映った。 最後にふと、心残りが頭をよぎる。
朱李に触れてみたかったな—————。